SRhyeの起きたまま寝言。

SRhyeの戯れごと、たわごと、与太話。

名前をつけてやる。

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廃車手続きのために、区役所へ。
普段あまり区役所などに行くことはないから、たくさんの人が何やら手続きなどを行っていてその人の数の多さに驚いた。役所勤務の友達がいるが、なかなか大変そうだなと人ごとながら思った。

帰り道すがら、桜が8分咲きくらいの肢体を見せつけていた。
思わず、「綺麗だな」と思った。
思わずというのは、もはや桜を見て反射的に綺麗と思う回路が出来ているのではないかというくらいオートマティカルなものだった。
そのあまりにも短絡的な回路に、果たして、本当に「綺麗」と自分は思ってるのか甚だ疑問に思えてきた。


綺麗とか好きとかカッコいいとか、それらは感覚的なものだが、実はそうでない側面もあると思う。
というのは、例えば桜ならば、「桜は綺麗」という情報の刷り込みが少なからずあるからである。
そう考えると、すべての感覚の言語化は少なからず、それまで得てきた情報の集積と、そこにある本当の感覚を混ぜたものになると思われる。
その割合は対象によって違うだろう。
例えば味覚の場合は、情報の刷り込みより実際の感覚が強いように思う。しかし、人気店という刷り込み、高級店という情報の刷り込みがあった場合、さらに美味しく感じさせたりするだろう。

桜を初めて見てどう思ったか、子供の頃を振り返ってみた。
子供の頃の記憶などあてにはならないが、おそらく「ただそこにあった」気がする。
最初は綺麗だなんて思ってなくて、ただそこにあった気がする。なんとも思わなかった気がするのだ。
そのまっさらな状態に、親などが「ほら、桜だよ、綺麗だね。」とかその類の情報を刷り込んでくる。
「ああ、あれは、ああいったものは綺麗なのか」という一つの基準が生まれる。
そうやって、人は少しずつ感覚に名前をつけていくのではないか。
そう考えると、まっさらな自分の感性にはもう出会えない気がしてなんだか少し寂しい。


なんてことを考えながら帰った。
近所のセブンイレブンで、コーヒーを買った。セブンイレブンのコーヒーは美味い。

よく味わってみた。

これは本当に美味い。
奥底の自分の本当の感覚に、なるべく忠実でありたい。

 


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